つき合いの深かった大手パワービルダー(建売住宅業者)の部長から、埼玉の熊谷で始める大規模な住宅開発のブロック関係を全部まかせるので行ってこいを頼まれました。
そこで熊谷に飯場代わりの建売住宅を1軒買い、下の連中と一緒に2年くらい仕事をしました。仕事をするうちに一人前のレベルに達した者は独立させて、「佐藤工業」ならぬ「佐藤組」はどんどん大きくなっていったのです。
とにかくお金は儲かりました。クレジットカードの作り方もよく知らなかったので、なんでも現金。車も現金で即決。財布に100万円以上入っていることもありました。そんな毎日でしたが、心の中では「なんか面白くないなあ」という思いはありました。
すでに世間ではバブルが弾けていたのに仕事も減らず、仕事の単価を下げられることもなし。世間の知らずの状態が続いたのです。
平成8年(1996年)、21歳の時に資本金300万円で有限会社「正和ブロック工業」を設立しました。と言っても仕事の内容は相変わらずで、FAXから流れてくる図面に蛍光ペンでブロックや門扉の位置を書き込んで仕事をするという具合です。1件で50万円くらいでしたが、件数が多いので年間2億円以上の売上がありました。
1998年の長野オリンピックでは、選手村の工事の仕事がまわってきました。開幕に合わせるための突貫工事で、単価も倍くらいに上がったのです。ホテルに泊まって昼は仕事、夜は温泉でドンチャン騒ぎ。下の連中も仕事と遊びで熱に浮かされたような毎日です。
オリンピック開幕前の2年くらいはそんな状態だったので、バブル崩壊を知らなかったのでしょう。いま思えば運がいいと言うか、私は「持ってる男」でしたね。